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信託大会で気になった黒田日銀総裁の体力

黒田日銀総裁が4月9日、総裁再任されたあと、最初の公的な場(信託大会・東京経団連会館)での挨拶を聞いた。決定会合をあとに控えていることから、内容にとくに新味はなく、従来の考え方を淡々として述べたという印象が強い。ただ、少し気になったのは、声の調子だった。

◎言い間違いに違和感

 

 日銀総裁の公的な挨拶は当然、原稿が用意され、ほぼ一語も違えることなく、話すことになっています。海外でもプレス向けには事前にそうした原稿を記者向けに渡すケースもあります。多少のアドリブは許されているということですが、今回の挨拶にはそうしたリップサービスは見当たりませんでした。

 挨拶の内容はさておき、気になったのは、ほんの些細なことなのですが、言い間違いを数か所したことです。「価格の引き上げ」と原稿にありながら、「物価」と話したことです。すぐに言い直しましたが、言い間違いにしてはおやっと思わせました。ほかにも言葉を2回繰り返したところもありました。総裁の当日の体調がどうだったのか、わかりませんが、いつもの記者会見の元気さがなかったように思われます。声も小さかったことも気になりました(会場のマイクのセッティングの問題かもしれませんが、それならそれで調整できるものですから、やはり元の声が弱かったのではないかと)。また、棒読みという印象は拭えません。

 総裁の続投が内定した後、黒田総裁は各方面にそれこそ精力的に挨拶回りしたとのことですが、それで疲れが溜まっていたのかもしれません。現在74歳、5年間の任期ですから79歳まで重責を担うことになります。大変な体力が求められます。海外への出張もG20やG7などのほかにも多くの機会があります。案じられます。

 しかし、日銀関係者によると、総裁の気力、体力は十分とのことです。ただし、5年前の総裁就任時とはさすがに違い、海外出張から戻られると自宅に帰ることが多くなっているようで、以前のように出張後、そのまま日銀本店に直行するというような体力はないようです。これは当然のことで、本店に直行すること自体が異例だったというべきかと思います。

 総裁は軍事オタクとして知られ、また、哲学者カール・ポパーを原語で愛読していると伺ったこともあります。最近では、法律オタクの様子で、トランプ大統領のイスラム教徒の入国規制命令に対するハワイ州の違憲判決を取り寄せて読んだとのこと。その知的好奇心の強さには驚かされます。ある財務省のOBは「知力、体力は十分」と太鼓判でした。総裁自身が続投を受諾したのも、体力に余裕があったからこそでしょう。

 

◎「やってみなければわからないではないか」論

 

 黒田総裁について書きましたので、ついでに少しだけ金融政策について触れておきたいと思います。小生は、金融政策の今後の見通しについていくつかのメディアで書いておりますが、それはそれとして、余談として触れたいと思います。出口論はまだ封印されたままです(YCCですでに出口を開始しているという見方もありますので、正しくはないというべきかもしれませんが)。少なくとも世論としては封印されていることになっています。また、5年前にCPIを2%にすると宣言したものの、その目的はまだ達成されていません。これは事実です。

 当初、QQEの評価は様々でしたが、そのなかに、「やってみなければわからないではないか」という見方がありました。QQEによって、CPIが上昇するという理論は当時、確立されたものは存在しませんでした。したがって、「やってみなければわからないではないか」というロジックは一種の説得力をもっていました。このように書くと当然、反発があります。理論は存在したと。実際、黒田総裁もQQEには理論的な背景があると海外で講演しています。

 ここでは理論の存否についてはコメントしませんが、すくなくとも「やってみなければわからないではないか派」は、間違っていたと思います。結果がそれを証明しているからです。当時、この政策の継続性に疑問を感じていたため、様々な方に意見を求めました。その際に、このフレーズをさんざん、聞かされました。

 方法、対応策がかならずしも存在しないときに、往々にして、この「やってみなければわからないではないか論」が横行します。反対するなら、お前にはそれに代わる理屈や方法があるのかと反駁されます。閉口します。そこには責任という考え方が抜け落ちているからです。理屈に欠陥があるのなら、理屈に責任があります。しかし、この「やってみなければわからないではないか論」には責任の所在がありません。話はぶっ飛びますが、太平洋戦争への突入のときにも、これと似たような状況があったのではないかと思います。冷静に考えれば日米間に戦力に相当の開きがあることがわかっていたのですから、理屈の上ではこんな暴論はありえなかったのではないでしょうか。(ちなみに、小生の親戚には多くの死者がおります)

 いまも、もし、前総裁の白川総裁の任期があと1年先まであったならとか、白川総裁が続投していたらどうなっていたのかといった話が時々、話題に上ります。これも「やってみなければわからないではないか論」と同じ線上の議論で意味はありません。たしかに、2013年、その前年から世界経済の拡大が続き、当時、株高がある程度予想されていました。異常な円高の修正も想定されていました。しかし、これも想像の域をでないので、単なる知的なお遊びに過ぎませんが、結構、熱が入ります。ただ、これも無責任な議論です。

 アカウンタビリティ(説明責任)は中央銀行にとっては鬼門です。万人に説明して納得してもらうことなど、到底無理な話ですから、どこかで、中央銀行は嘘をつかなければなりません(と思っています)。うまい嘘、それは勿論、国民にとって良いことでなければなりませんが、その嘘がうまくつけるかどうか。金融政策にせよ、財政政策にせよ、すべての国民にとってイーブンな政策など存在しません。それを納得させる当局側の技能と、それに対して嘘を巧妙に受け入れる国民側の狡猾さが必要なのでしょう。自分にその狡猾があるか、お寒い状況ですが、もっと心配なのは金融機関にその狡猾があるのかどうかです。