厚労省で検討していた資金移動業者の口座への賃金支払い、いわゆるデジタルマネーによる賃金支払い構想が頓挫した。昨年の政府の成長戦略に盛り込まれたものの、確実な賃金支払いを求める労働側(連合)の反発が強く、予定の今年度末までに実現するという方針を変更ないし中止せざるを得ない状況となった。議論の場となった厚労省の労政審議会では、多くの問題点が労使双方から指摘されており、それぞれ解決の方向性がまったく見えていない。労政審で指摘された項目以外に構想の背後に大きな課題について考えてみたい。
◎賃金と少額資金の支払いを同一視していいのか
資金移動業者の口座への賃金支払いの解禁―銀行からの給与振り込みでなく、会社(使用者)が社員(労働者)の資金移動業者の口座に直接、給与を送金するという構想を厚労省(労政審議会)が検討してきました。しかし、約束のタイムリミットであった年度末までに解禁という結論をだすことができませんでした。案の定という感があります。これは昨年の政府の成長戦略において、国家戦略特区構想の目玉のひとつとして、「新たな生活様式」に対応した規制改革の推進という名目で浮上したテーマでした。
かつて、賃金の支払いは現金でしたが、いまや銀行給振が一般的です。その賃金を直接スマホで決済できるようにしようというもので、たとえばQRコードを使い、〇〇Payで決済するとき、銀行口座から一度、スマホに資金を移動させるという手間もかからず、便利なサービスのように思えました。
しかし、ここで素朴な疑問があります。少額支払いと賃金の支払いを同一視していいのかということです。たとえ少額であっても賃金は賃金です。労働の対価です。何かの買い物の決済資金ではありません。労働債権は、たとえば会社更生法において賃金は納期の来ていない税金と同様に最優先で支払われ、抵当権付き債権より優先されます。また、民事再生手続においては未払いの賃金は抵当権付き債権に次ぐもので税金と同じ優先権が認められています。だから、お金の質が違うのです。
また、銀行は厳格な行政の監督下にありますが、資金移動業者は登録業者に過ぎず、送金を保証するシステムが脆弱です(仕組みに説明は割愛します)。最大のポイントは資金移動業者が破たんしたとき、どのように労働者を保護するのか、その制度がないことです。厚労省も昨年の夏、政府の成長戦略に挙がったものの、なかなか腰を上げずにいました。労使ともに反対だったからです。賃金を確実に支払うことは労働行政としても極めて重要なテーマですが、そこが担保されていないと考えていたからです。今回の一連の議論で労使ともにセーフティネットを要求しています。当然のことです。
◎デジタル賃金の保険コストの算出が難しい
ところで、デジタル賃金の運営コストは一体どのくらいかかるものなのでしょうか。支払いを厳格にすればするほどコストがかかります。資金移動業者の支払いに銀行または保証会社の保証を付けるという案もあります。さらに保険会社の保険もあります。
その保証や保険料は一体いくらになるのでしょうか。労政審議会では保全のための保証料や保険料の多寡については、まったく議論されていません。ただ、必要だというだけです。およそ制度を新たに作るときは、事前にコストがいくらかかるかをシミュレーションするのは常識です。それがないのです。不思議な話です。
保険会社からみると会社の賃金支払い能力の査定ということになります。銀行の融資審査と同じか、それ以上の審査が必要になります。デューデリを行い、キャッシュフローを見なければなりません。厳密に言えば、毎月の保険料は変動させなければならないでしょうし、その保険料を決めるには時間もかかります。そんな賃金支払い補償保険を引き受ける保険会社は本当にあるのでしょうか。考えただけでも保険料が高くなることが想定されます。
また、保険金の支払いのタイミングもあります。会社が資金ショートして支払い不能となることが判明してから、支払うとしてもどうしても遅れます。給料日に払われることはないでしょう。
資金移動業者は口座からの送金手数料が安いことを強調しています。しかし、保険料込みの価格を提示していません。さらに、滞留資金(労働者が入金された賃金を使い切れず残った場合、口座残高に見合う供託金を積む必要があります)のコストも顕在化する可能性があります。いまは超低金利なので、仮に保険でなく供託した場合、滞留した資金コストは微々たるものでしょう。しかし、ひとたび金利が上昇すれば、そのコストを負担しなければなりません。サービス価格に転嫁しなければなりません。
◎会社の経理負担も大きい
ということは、デジタルマネー賃金のコストは、業者が説明するように安いものではないのです。さらに、使用者側のコストも増えるということも見逃せません。これまで銀行に給振データを渡すだけで済みましたが、これを分割して支払わなければなりません。毎月の給料は変動します。変動に応じて支払い指示をだすことになりますが、最悪の場合、銀行口座あるいは資金移動業者口座のいずれか、あるいは両方に不払いが生じるときもありえます。そうしたケースを織り込んで事前にルール作りをすることになりますが、会社の経理部の事務がそれこそ複雑となり、大混乱に陥る可能性があります。
実は会社側の負担も大きいのです。実務面の負担についての議論はあまりなされてきていません。これも解禁ができなかった理由のひとつになっています。コストは最終的に労働者へのしわ寄せとなり、サービスの価格に転嫁されることになるはずです。スマホをもっている労働者はタダでサービスを得ることはできないのです。
◎滞留資金の出資法違反対応をどうするか
コストの次は、ルール違反への対応という課題があります。ひとつは、滞留資金について違法となる可能性があるということです。労政審でも当初から議論になっていた点です。
資金移動業者の口座には、多分、滞留資金が貯まります。定期的に入金されるので、おそらく根雪のように積み上がっていくでしょう。そもそも送金のための業者であって、滞留資金を貯めることを法律は想定していません。現実に預り金と同じ性格を帯びれば、出資法違反です(滞留資金にポイントを付けるというキャンペーンを展開しようとした無知な業者もしました)。
何らかのルール(金融庁は資金移動業者の滞留資金についての資金決済法ガイドラインを昨年末に公表済み)で出資法違反を回避するしかありません。このガイドラインがあったとしても多分、違反するケースはごろごろと出てくるでしょう。出資法違反は刑事罰です。金融庁は出資法の解釈について照会があったときに説明する義務がありますが、違反の事実を把握したときは警察や検察などの捜査当局に情報提供するだけです。厚労省が主体となって監督するしかありません。できますか?
この問題は労政審でも整合的な解は示されませんでした。使用者側と労働者側を監督する厚労省だけでは対応不能ですし、およそ複数の官庁にまたがるような監督は機能しません。つまり、デジタルマネー賃金の違法状態のチェックが効かないのです。
◎マネロン対策ができるのか
政府の未来投資会議の場でフィンテック協議会が要求したデジタル賃金構想を読むと、本人確認に対する甘い認識とマネロン対策への意識の欠如が露骨です。
まず、前者、「銀行等での口座開設が困難な方でも金融サービスが受けられるようにできることは重要であり、ペイロール・カードやスマートフォンでの決済・送金を提供する資金移動業者が開設する口座への給与の支払を認めることが妥当と考えられる」―趣旨はよく理解できます。しかし、銀行口座すら開設できない人の本人確認をどうするつもりなのでしょうか(銀行が口座新設を認めない人の本人確認です)。
しかも、「他事業者(銀行やクレジットカード会社以外でも)による本人確認手続の結果を確認することで、本人確認やマイナンバーを重ねて提出することは不要としていただきたい」とあります。これは企業グループ内で本人確認を使いまわすことを認めてほしいというものです。
銀行やクレジット会社“以外”での本人確認ですよ。具体的にどうするのか示されていないので、なんともコメントしようがありませんが、銀行やCCの審査なしで、自前で本人確認し、それをグループ内で共有しようということです。こんな甘々なKYCが認められるのでしょうか。本人確認を自ら行わず、銀行に依拠した結果、ドコモ口座事件が起きたことは記憶に新しいところです。
まして、マネロンについては、ノーコメントです。マネロン資金判断、マネロン犯罪データへの照会に銀行は多額のコストをかけてシステムを構築しています。資金移動業者が本当に独自にシステムを構築するのでしょうか。多分、不可です。それほどのコストをかけてしまえばビジネスとして成立しないでしょう。
◎そもそも外国人労働者対策
デジタル賃金は、2017年12月に東京都が外国人労働者を念頭に要望していたものです。翌2018年12月にこれが国家戦略特区構想(全国ベース)に引き上げられたという経緯があります。ここで小さなボタンであった構想を大きなボタンにしてしまったことに、つまずきの原因があります。
ある金融庁の幹部氏が「これは外国人向けなんですよ」と解説してくれました。ならば、構想を小さくしてアメリカ型のペイロールか、プリカ程度にすべきではないでしょうか。
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